20181006

 感謝祭を見た。好きな人がたくさん出ていたので、なんだかんだずっと見てしまっていた。やっぱりあの食事タイムが好きですね。わくわくする。好きな人がどこにいるのかを画面の隅から隅へと確認するだけの時間なんだけど。誰としゃべってるのかとか、なに食べてるんだろうとか、そういうのを見るだけの時間なんだけど。人がごちゃごちゃと無秩序に動いているのが好きだからかもしれない。あれを見ると「ウォーリーを探せ」をしている気分になる。今回の新企画がまさしくウォーリーみたいな感じだったから余計にそう感じたのかもしれない。

 チョコレートプラネットの松尾さんはとても器用だよなあと改めて思った。どんどん売れてほしい。マラソン和泉元彌も笑いました。(あれ、鼓舞は?)

 あと北川景子さんの涙が美しかった。すばらしい四分間だった。

 そして朝日さん優勝。まさかでびっくりした。おめでと!

 

 

 全然関係ないけど、AVの世界では女優と男優がいるのなんでだろうな。さらばのコント「男優」を見てふとそんなことを思った。

なんで男優って呼ばれているんだろう。俳優でもいいはずなのに。AVの場合は俳優呼びすると違和感を覚え、男優呼びがしっくりくる。不思議なものだ。

 女優と俳優よりも好ましいと思うんだよな。役者はみんな俳優なんだから、性別で名称を変えるのはそろそろやめてもいいのでは。女優と男優のほうがまだましな気がする。これだけ区別つけてる方がよっぽど清々しい。

 女優・俳優とは別だけど、日本語の一人称の多さは良くも悪くもある。どれかを選択することによって、性別を勝手に汲み取られるような気がする。「私」は男女ともに使用するけれど、一般的に使うのは専ら女性だ。かくいう私もこの一人称は女性、男性、と分けてしまう。そういう先入観があるのが少しかなしい。

 どこで読んだか忘れてしまったが、翻訳するときに性別の区別がついていない主人公だったので訳するのに苦労した、みたいなのを読んだことがある。英語では「I」だけの一人称は、それだけでどちらなのだろうと想像しながら読む部分があるけれど、日本語の場合はあらかじめ性別を想定して読んでいることが多い。そういうのを違和感なくギミックとして使用することはなかなか難しい。まあだからなんだという話ですが。

 性別とか関係なく、何もない、無性別の人称が与えられたらいいのにと思うときがある。いちいち性別が付くのが面倒くさい。男も女もない、ただのいきものとしての一人称がほしい。日本語で言えば「私」が一番近いのかもしれないが、どうなんだろう。

 

 

 

 さて、待ちに待った後夜祭がある。夜はまだまだ長い。